大分市に移住しました

それは1993年末のことで、私たち一家4人は母方の祖母を頼って上海から国際船に乗り、神戸港を経由してフェリーに乗り換え、一週間かけて大分の地に足を踏み入れました。思えば遠くへ来たもんだ、故郷離れて二十年、この先どこまで行くのやら。(海援隊)

感傷は程々にして、大分という土地は古くは豊後の国と呼ばれ、キリシタン大名「大友宗麟」の領地でした。現在の大分市役所と県庁の所在地周辺が元府内城の範囲で、今や城の形跡は城址公園としてあるのみです。大分が誇るものは国道10号線、読んで字の如く日本全国で10番目の国道です。それに偶然の一致とは思えない物価指数も全国10位なんです。県の範囲で全国的に知名度が高い別府や由布院をはじめとする温泉は、源泉数、湧出量ともに日本一であり、地熱発電の量もそうです。更には栽培や養殖などの産業、食文化、美容やと医療に至るまで、豊かな温泉の恵みが幅広く活かされています。また「日本一のおんせん県おおいた」をキャッチフレーズに温泉をアピールしています。

その大分県の中で私たち一家がたどり着いたのは、大分市の市街地からローカル線で2駅(約10分)離れたところで、大分大学の周辺でした。大分市で有名なのは高崎サル山やウミタマゴ、新日鉄などで、1950年代は人口10万人だったのが1990年代には40万人までに激増しています、これには大合併等の他に新日鉄などの企業誘致に成功したことが関係しています。最近では高架鉄道工事とともに駅ビルを改築し、アミュプラザが開業しました。今後は駅前再開発に力がそそがれるかと思われます。私たち一家が生活をした地域は発展著しい時期に開発されたニュータウンでした。

話は少し戻って、1945年に日本敗戦と開拓民(という名の植民)引き揚げにより中国東北部に残されたものは女(残留婦人)、子供(残留孤児)となりました。女は中国人に嫁ぎ、子供は中国人の養子になることで生き延びることができましたが、これらの人々は決して自らの意思で残ることを選んだのではありません。なので、「残留」という言葉には語弊があり、正しく表すならば「遺留」の方が正しいかと思います。当時遺留された婦女は3775人、孤児は約2700人で、私の祖母もそのうちの一人でした。5歳の身である程度の生活が保障できそうな子無中国人夫婦(後の曾祖父母)に預けられ、7歳の姉妹も他家に預けられて、その後一度だけ偶然に会ったことがある程度でした。そんな状況でも当時3歳だった兄弟は大事に保護されて日本に戻れました。

1981年より厚生省が中心となって中国残留孤児・訪日肉親捜しが開始され、多くの残留孤児が日本を訪れて肉親を探すようになった。私の祖母も養親に気を遣いながら秘密裏にやり取りをして、1987年に一家そろって日本に移住しました。しかし私の母は養子に出されていたため後回しにされ、遅れること5年後にようやく移住話が持ち上がりました。そして冒頭に述べた通り1993年にやっと日本の土を踏みしめました。

当時私は10歳で弟が8歳でした、小さいほど慣れるのが早く、私はギリギリ小学校の最後の2年間で何とか馴染めました。そして中学で苦痛だったのは英語の授業で、当時やっとの思いで中国語の後に日本語を詰め込んだ状態で、さらに英語が来たら容量オーバーでした、逃避したこともあります。また、日本に来たことによりすべての環境がリセットされ、半養子状態だった私にとっては、家族も友達もなくなったのと同じで、ガキ大将になるほどの活発な性格から一転して寡黙になりました。

そんな状態でクラスによくいる冴えないヤツの一人として中学を卒業し、高校の時に少し元気を取り戻し、大学時代はパーマをかける(オールバックの失敗)位になりました。そして大3の時にネットゲームにはまり、また転落人生に傾きました。何とか平凡な成績で卒業できたものの、一人暮らしを始めてからはゲーム廃人となり、乱れまくりの生活をしました。そして半年もしないうちにゲッソリした姿を親に晒して、私を更生させるための結婚話が持ち上がりました。

そして以前に手助けして家族ぐるみの付き合いになった中国人留学生に親戚の女の子を紹介してもらい、半ば見合い結婚の形で新生活が始まりましたが、当然うまく行かずギクシャクしながらも周りの協力で何とか数年持ち堪えました。長くなりましたので一旦切ります、その後についてはいずれまた書きます。

 

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投稿者プロフィール

金鱗化龍
福岡在住で中国(青島)生まれの日本(大分)育ち、上海や鄭州に基盤あります。日中間のやり取りで御入用の方はご相談下さい、要人訪日の通訳を務めた先生や上海進出企業の上層部を束ねる師匠がいます。ITに強いです!