上海市で留学しました
もうご存知の通り私は1歳で養子に出され、10歳の時に異国日本に移住し、大学卒業後しばらくしてゲーム廃人から立ち直らせるために結婚させられました。端折りすぎた部分もあるのでもう少し詳細に遍歴を語りたいと思います、お付き合いいただきましてありがとうございます。時の文化大革命で貧農へ転落した家系の父(中卒)と、残留孤児の子として生まれ養子に出された母(小卒)と、一人っ子政策の最中で弟を誕生させるために養子に出された私自身、順風満帆のはずがありません。
9人の中で生き残った6人兄妹の4番目である父は、高校に受かる実力があるにもかかわらず、枠がなかったので断念させられ、大学を卒業できた長兄にコンプレックスを抱き、「長男はどうこうあるべきだ」といつも私に厳しくしていました。箱入りで育てられ無知無能な母は父の言いなりで縋っていました、半養子状態だった私は親への感情は薄く、その原因となった弟のことも同居人くらいの存在でした。日本に移住したことで友達もなくした私は外界に通じる心の扉を閉じてしまい、人生に希望を持てない状態でした。
進路決定の時に、奨学金を借りてでも大学に進むと決めたはいいものの、空虚な心はゲームで埋められ、平凡な成績で大学を卒業した後も廃人状態が続きました。そんな私を見かねた両親は姉さん女房に管理させることをかっさくしましたが、年齢詐称(実際は年下)と分かっても後に引けない状態で結婚に至りました。月20万手取り17万ちょっとの収入で奨学金を返済しながら生活は専業主婦を養えるはずもなく、かと言って言語能力と外国籍就労規則の壁で妻も扶養内の収入しか得られません。三日に一度は言い合いになり週一で大ゲンカのような生活を一年半ほど続けた後、現状を打開すべく中国に活路を求め留学を決意しました。
上海市は中国最大の直轄都市であり、有数の世界都市である。また、同国の商業・金融・工業・交通などの中心の一つである。2012年6月時点の常住人口は2,400万人を超えており、市内総生産は2兆3,560億元(約45兆円)で、首都の北京市を凌ぎ中国最大である。上海には数多くの学府が存在しますが、私が選んだのは上海師範大学、残留孤児三世として慰安婦問題研究の第一人者である教授の修士研究生となりました。
高校卒業時にはすでに日本国籍を取得していたので、この時は留学生という身分になりました。在学中も生活のために日中・中日翻訳や翻訳文章校正のアルバイトをしながら、JETRO主催の同郷の会に顔を出して中国要人訪日の通訳を務める社長と知り合い、「佐賀空港に春秋航空を誘致する」ための仕事を紹介してもらい、商談成立に持っていきました。その後「日本の生な情報を中国に発信するプロジェクト」に誘われて、一旦休学して福岡で業務に取り掛かりました。
日中間を取り持つ大事な役目でしたが、若くて人生経験が浅い私には荷が重すぎました。スポンサーには「カネを出しているのに思い通りにならない」と愚痴られ、システム提供者には「こうしないと受け入れられない」と言われ、両国の実情の違いを説明しながら調整していましたが、無理でした。最終的にはトップ会談になり、この時は私と社長で通訳をしましたが、ITの知識が乏しかった社長の勘違いにより論点が逸れてまたこじれそうになった所で、私は我慢ができなくなり直接指摘してしまい、恥をかかせる結果になりました。
会談は順調に終了したのですが、それ以降社長との仲がギクシャクし始めました。当時私は「自分は絶対に正しいことをした」と考えていたため、主張を曲げることができませんでした。そしてとうとう、「帰りのあいさつを1回抜かした」という些細なキッカケで、ぶっちゃけ話をしてしまい関係修復が不可能になり、辞めることになりました。「それでも自分は正しい」と思い続けながら、一度大分の実家に戻りました。長くなりましたのでいったん区切ります、続きはまた今度。
投稿者プロフィール
- 福岡在住で中国(青島)生まれの日本(大分)育ち、上海や鄭州に基盤あります。日中間のやり取りで御入用の方はご相談下さい、要人訪日の通訳を務めた先生や上海進出企業の上層部を束ねる師匠がいます。ITに強いです!
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